あきらめるか、部屋片付けを追求するか

「あなたは、完全主義者だから、動くのが遅いのよ。 理論中心だから、お客様の顔も覚えられなくて、よく商売ができるわねえ」と、痛いところをつく。
「いや、覚えたくとも、忘れてしまうのだ。 でも、重要な人は、必ず覚えているさ。
それと、何回も会った人はね。 でも、一日何十人と来るだろ。
その人たちの顔をいちいち記憶するのかい。 」「商売上手な人は、覚えていますよ。
ホテルの支配人を見てご覧なさい。 何十人来たって、覚えているのよ。
あなたは、無神経なだけなのよ」「確かに、無神経かな。 人の顔を覚えるより、機械的に仕事を運ぶ方法を考えるからね。
鼠的生産を考えて、個々はあまり見てないよ」「だから、お客様から『冷たい社長ね』と言われるのだわ。 昨日だって変よ。
前日契約したTYハイツのYさん、もう顔を忘れて、あいさつもしなかったわ。 失礼な話よ」「ハハハ、見事に忘れるのだよ。

おや、どこかで見た人だな、とは考えるけど、別の客とまちがっては困るから、黙っていたのさ。 どうも、全てをインプット出来ないのは、僕の弱いところだな。
本なら、読んだのは忘れない」われながら恥ずかしいが、人の顔を覚えるのは、どうも苦手である。 そうかといって、記憶が悪いわけではない。
学生時代、記憶の勝負では、群を抜いていた。 意味のない話だが、歴史の暗記や漢文の暗記は、スラスラと頭に入ったのである。
別に脳に異常があるわけではないらしい。 そこへいくと女房は、顔記憶が良くて、天才といわれている。
勿論、部下達である。 何か特殊な記憶装置を備えているのか、と思うくらいすごい。
一日に二十人くらいの来客と接していながら、再度来た人の名を、ピタリと当てる。 先日も、中年の婦人が事務所を訪ねてきた。
「こんにちは。 もうずいぶん前だから、お忘れでしょう?九年前に引っ越しましたの。

私の方は、すっかり奥様の顔を忘れていました。 ごめんなさい。
でも、事務所が同じ名前なので、わかりました。 お久しぶりですわ」そう言われて、社員も僕も、きょとんとした。
どうやら、前のお客様らしい。 すると部長がニコニコしながら出てきた。
「あら、暫く。 お名前は忘れましたけど、uかkさんか?サンシティの二階におられた印刷屋さん」「まあ、覚えていてくださったの。
uでございます。 嬉しいわ。
社長さんはこんな奥様をお持ちになって、幸せですわ。 よく忘れないでいてくださいましたわ」「人との付き合いが好きで、商売向きなのです」僕は喜んで同意したが、僕に協力しないわがまま娘だ、とは口が腐っても言えないのである。

「奥様は店の顔ですものね。 明るくてハキハキして、親切よ。
今度は、マンションを買いたいので、教えていただくわ」「安くなっているから買い頃よ、uさん。 チラシがあるから、ご覧になって」と、部長はすぐ打ちとけ、客と親しくなるのが苦にならないらしい。
そういえば、わが家の猫、i君も人なつこかったな。 一事が万事で、連日、名演出をつづける。
お客様のいない時を見計らって、僕は強がりを言うことになる。 「確かに、営業は名前と顔を覚え、親しくなるのが一番だよ。
でも、私は全部の責任者だから、営業だけでなく、修理、経理、決算、支払い、開店、解約立会いと仕事があって、頭脳勝負だよ。 だから、将来は客の顔をコンピューターにインプットして、入り口に来たら『どこの誰様がまいりました。
中へどうぞ』と、テレビに教えてもらうよ」「そんな便利な機械は、生きている間にできるかどうか、わかりませんわ」K嬢は、笑いなが否定した。 「そんなら。
オームを飼うさ。 オ‐ムさんに『いらっしゃいませお客様どうぞ中へ入ってください。
ついでに、お名前とご用件を大きい声で言ってくださいませ』とやってもらうよ。 どう、アイデアだろ」「でも、サボルこともあるわ。
死んだら使えないでしょ。 やっぱり、自分で覚えるべきだわ」と、部長は軽く鼻であしらい、僕のアイデアを無にしてしまうのである。
「お宅の奥さん、よく働きますね。 今朝宮本にいたのに、昼には夏見台、二時には津田沼にいましたよ。

自転車でパンパン走って、お元気ですねえ」あちこちの地主さんから、いつも言われる。 「ええ、動くのは体にいいですから」僕は、笑ってごまかすことにしている。
体を使って労働するのは、貴重なことである。 「一番ですよ。
商売は、字のごとくアキナイですから。 毎日元気な顔をするのが一番ですよ。
奥さんの笑顔を見ていると、こっちも元気になります」とてもひいきにしてくれる人から、そこまで言われると、嬉しい反面、悲しくもなる。 僕の立場がなくなっているように思うからである。
まるで、女房のお陰で会社が持っている、と言わんばかりなのが、内心面白くないのである。 だが、最近の僕は、女房の評判を利用して、自分の理想を達成できることに気づいた。
こうである。 社長というのは、本来経営全般に能力が要求される。

陽の当たる部分にも、当たらない部分にも、である。 企画力、将来への洞察力、現状に対するきびしい分析、競争の戦略、目標達成の方法、危険への予防回避、統率力といったものである。
営業で良い顔をして、元気ぶってばかりはいられない。 かといって、会社の時間内に仕事を終えるには、限度がある。
だから、派手な第一線は女房に任せて、地味で沈着な社長業を行うには、一歩下がっている方がやりやすい。 その方が、岡目八目と同じで、周りがよく見える。
というわけで、この頃の僕は、女一房が会社の顔になるのを、心から喜んでいる。 若い頃に体の弱かった女房は、どうしたわけか、最近丈夫である。
よく寝る。 夜は七時頃に夕食をすませ、もう八時には、リビングでグウグウ寝ている。
少し起きたかと思うと、また寝ている。 朝も同じで、五時に起きて畑仕事をしたかと思うと、七時にひと寝入りする。
それと、色々な趣味の広場に顔を出している。 近頃の奥様族の風潮らしく、七つも八つもかけ持ちである。
お花あり、踊りあり、美容あり、ヨガあり、お琴ありで、目がまわりそうである。 目がまわらないで出席していられるのは、少し太って、体形がどっしりしたせいだろう。

予算があるのだって」このように、いつの間にか会に入り、自然と人が寄ってくるのである。 「部長は、たいしたものね。
人脈が広くて、人気者だわ」と、社員が感心して言うので、「そうだね。 たいしたものだ」と、僕はわざと相槌を打つ。
ちなみに、僕は人脈の狭いのを誇りにしている。 「そう、手頃なのが出ているから、後でチラシを届けるわ」「今日は、誰か来た?」「ホテル研究会の仲間だとか言って、お客さんが見えたよ。
はざま町のKさんとか言っていたよ」「毎週公民館で集まっているのよ。 何か置いていったでしょ。
パンフレットみたいなのを」「机の上に置いといたよ。 その人の妹さんが、中古住宅を探しているとか。
三千五百万円「部長の友だちが事務所に来るけど、皆いい人ばかりね」「そうかねえ。 大半はいい人だけど、中にはクセのある人もいるみたいだよ」「くせのある人?恐い人ですか?」「こうだよ」と、僕はひと息入れて説明する。
「他人の成功をねらって、どこかに食いついて、利用しようという根性の人さ。 付き合うと必ず損をする。
だから、恐い人なのさ。 顔が恐いなら、誰でも警戒する。
動作が恐いなら、誰でも避ける。


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